上腕骨滑車 Trochlea humeri

J0169 (右上腕骨:前方からの図)
J0170 (右上腕骨:後方からの図)

J0174 (右上腕骨、下端:下方からの図)

J0318 (右の肘関節は伸ばされ、上腕骨の滑車の軸に対して垂直に切断:尺側からの図)

J0367 (右肘関節:伸展、手の回内、手根背側方向からのX線像)

J0369 (右の肘関節:手の回内時に伸ばされた橈尺方向からのX線像)

J0371 (右肘関節、直角に曲がって、手の回外時、橈尺方向からのX線像)
解剖学的特徴
上腕骨滑車は上腕骨遠位端の内側部に位置する滑車状の関節面で、肘関節の主要な骨性構成要素です(Standring, 2020)。以下の詳細な解剖学的特徴を有します:
- **位置と形態:**上腕骨遠位端の内側に位置し、糸巻き状(滑車状)の形態を呈します。中央に滑車溝(trochlear groove)と呼ばれる浅い溝が存在し、内側縁が外側縁よりも遠位に約6mm突出しています(Gray, 2020)。この非対称的な構造により、前腕の生理的外反角(carrying angle)が約10-15度形成されます(Morrey & Sanchez-Sotelo, 2008)。
- **関節面の範囲:**滑車の関節面は約330度の広範囲にわたり、前方では肘頭窩(olecranon fossa)の上方に、後方では肘頭窩内に位置します(Standring, 2020)。この広い関節面により、肘関節の屈曲時(約0-150度)において尺骨との接触を維持します。関節面全体は硝子軟骨で覆われており、厚さは中央部で約2-3mmです。
- **関節の種類と機能:**尺骨の滑車切痕(trochlear notch)と腕尺関節(humeroulnar joint)を形成し、純粋な蝶番関節(hinge joint)として機能します(Neumann, 2016)。主に屈曲・伸展運動を可能にし、肘関節の安定性に最も重要な役割を果たします。正常な肘関節では、屈曲0度から150度までの可動域が得られます。
- **軸の傾斜と角度:**上腕骨滑車の軸は、上腕骨の長軸に対して前方に約3-8度傾斜し、また内側に約5-7度傾斜しています(Morrey & Sanchez-Sotelo, 2008)。さらに、滑車軸は上腕骨の冠状面に対して約3-5度の内旋を示します。これらの角度は肘関節の運動軸と安定性を決定する重要な因子であり、外反角の形成や前腕の回旋運動に影響を与えます。
- **周囲の骨性構造:**外側には上腕骨小頭(capitulum)が隣接し、橈骨頭と関節を形成します。内側には内側上顆(medial epicondyle)が突出し、その後面には尺骨神経溝(ulnar nerve groove)があります。前方には鈎突窩(coronoid fossa)、後方には肘頭窩が存在し、それぞれ尺骨の鈎状突起と肘頭を収容します(Standring, 2020)。
- **血管供給:**上腕骨滑車の血管供給は、上腕動脈から分岐する上腕深動脈(profunda brachii artery)の枝、上尺側副動脈(superior ulnar collateral artery)、下尺側副動脈(inferior ulnar collateral artery)、および橈側副動脈(radial collateral artery)によって行われます(Morrey & Sanchez-Sotelo, 2008)。これらの血管は骨端部で豊富な動脈網を形成します。
- **神経支配:**滑車部の骨膜と関節包は、橈骨神経、正中神経、尺骨神経の関節枝によって支配されています(Standring, 2020)。特に尺骨神経は滑車の内側縁近くを走行し、臨床的に重要です。
臨床的意義
- **上腕骨顆上骨折:**上腕骨遠位端で最も多い骨折で、特に小児(5-10歳)に好発します(Rockwood et al., 2014)。滑車部の近位で骨折が生じ、Gartlandの分類でtype I(転位なし)からtype III(完全転位)まで分類されます。合併症として、上腕動脈損傷(約10-20%)、正中神経損傷(約5-10%)、フォルクマン拘縮、肘内反変形(cubitus varus)などがあります。特に肘内反変形は、外側骨片の内側傾斜や内側骨膜の損傷により生じ、cosmetic problemだけでなく、遅発性尺骨神経麻痺(約5-10年後)の原因となります(O'Driscoll et al., 1991)。
- **上腕骨顆部骨折:**滑車部を含む関節内骨折で、内側顆骨折と外側顆骨折があります。内側顆骨折は比較的まれですが、尺骨神経損傷(約10-15%)のリスクが高く、偽関節や成長障害により外反肘を来すことがあります。外側顆骨折は小児の肘関節骨折の15-20%を占め、転位が大きい場合は観血的整復固定術が必要です。不適切な治療は偽関節、外反肘、遅発性尺骨神経麻痺の原因となります(Rockwood et al., 2014)。
- **尺骨神経障害:**滑車部の内側に位置する尺骨神経溝を通過する尺骨神経は、解剖学的に脆弱な位置にあります。肘部管症候群(cubital tunnel syndrome)は、尺骨神経の絞扼性神経障害の中で手根管症候群に次いで2番目に多く、有病率は約25/100,000人です(Caliandro et al., 2016)。原因として、骨棘形成、ガングリオン、腱肥厚、反復的な肘屈曲動作などがあります。症状は、小指と環指の尺側半分のしびれ、手内筋(特に第一背側骨間筋、小指球筋)の筋力低下と萎縮、Froment徴候陽性などです。電気生理学的検査で肘部での伝導速度低下(50m/s以下)が診断の根拠となります。
- **外反肘と内反肘:**正常な外反角は男性で約10-12度、女性で約13-15度です。骨折後の不適切な治療、成長障害、関節症などにより、この角度が変化します。外反肘(cubitus valgus)は外反角が20度を超える状態で、遅発性尺骨神経麻痺(tardy ulnar nerve palsy)の原因となります。神経麻痺は受傷後平均15-20年で発症し、尺骨神経が伸展され虚血性変化を来すためです(O'Driscoll et al., 1991)。内反肘(cubitus varus)は外反角が0度以下となる状態で、主に上腕骨顆上骨折後の合併症として生じます。機能障害は少ないものの、美容上の問題や後外側回旋不安定性(posterolateral rotatory instability)の原因となることがあります。
- **変形性肘関節症:**滑車部の軟骨摩耗により生じる変性疾患で、一次性(特発性)と二次性(外傷後、職業性、スポーツ性)があります。好発年齢は50-60歳代で、男性に多く見られます(Tanaka et al., 2008)。危険因子として、重労働(特に振動工具の使用)、投球動作を繰り返すスポーツ(野球、テニス)、肥満、過去の骨折や脱臼があります。症状は、肘関節痛(特に屈伸時)、可動域制限(伸展制限が屈曲制限より先行)、軋轢音、骨棘による尺骨神経圧迫症状などです。画像所見では、関節裂隙狭小化、骨棘形成(特に肘頭窩と鈎突窩)、軟骨下骨硬化、遊離体形成が認められます。治療は保存的治療(NSAIDs、理学療法)が基本ですが、進行例では関節鏡視下デブリードマン、遊離体摘出術、骨棘切除術、重症例では人工肘関節置換術が検討されます。
- **離断性骨軟骨炎(OCD):**若年者(特に10-15歳の野球選手)の上腕骨滑車に発生する骨軟骨障害です(Takahara et al., 2007)。病因は完全には解明されていませんが、反復的な投球動作による外反ストレスと圧迫力が関与すると考えられています。滑車部の内側(橈骨頭との接触部)に好発し、病期はMRI所見に基づきStage 0(軟骨下骨の信号変化のみ)からStage 4(遊離体形成)まで分類されます。早期発見が重要で、Stage 0-2では投球禁止などの保存的治療で改善する可能性があります。Stage 3以上では関節鏡視下または観血的な骨軟骨移植術、自家骨軟骨柱移植術(mosaicplasty)が必要となります。予後は早期発見・早期治療例で良好ですが、遊離体形成例では変形性関節症に進行するリスクがあります。
- **上腕骨滑車形成不全:**まれな先天異常で、滑車の低形成または欠損により肘関節の不安定性を来します。多くは他の先天異常(橈骨頭脱臼、尺骨短縮など)を合併します。治療は重症度により、装具療法から骨切り術、関節形成術まで様々です。
上腕骨滑車は肘関節の主要な安定化構造であり、静的安定性の約50-60%を担っています(Morrey & Sanchez-Sotelo, 2008)。その解剖学的形態、特に滑車溝の深さと内外側縁の高さの差は、肘関節の外反・内反安定性に直接影響します。また、関節面の整合性は、関節軟骨の健全性と正常な接触圧分布を維持するために不可欠であり、これが損なわれると早期に変形性関節症が進行します。さらに、滑車の軸の傾斜角度は、前腕の外反角と回旋運動の範囲を決定し、上肢全体の機能的アライメントに影響を与えます。したがって、上腕骨滑車の解剖学的完全性を保つことは、肘関節の正常な機能と長期的な健全性を維持するために極めて重要です。