舌骨後包 Bursa retrohyoidea

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J0421 (舌骨筋(深層):前面図)

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J0744 (喉頭の正中断、右半分:左方からの図)

定義と概要

舌骨後包(Bursa retrohyoidea)は、頸部前面の舌骨体後面と甲状舌骨膜の間に位置する滑液包である。この構造は胸骨舌骨筋包(Bursa musculi sternohyoidei)とも呼ばれ、舌骨の運動時における周囲組織間の摩擦を軽減する重要な役割を果たす(Standring, 2021; Gray et al., 2020)。滑液包は一般的に関節や腱の周囲に存在し、機械的ストレスを分散させる機能を持つが、舌骨後包は頸部における嚥下や発声といった複雑な運動において特に重要である(Drake et al., 2023)。

解剖学的構造

位置と境界

舌骨後包は舌骨体の後面と甲状舌骨膜(thyrohyoid membrane)の間に位置する。より具体的には、胸骨舌骨筋(sternohyoid muscle)および甲状舌骨筋(thyrohyoid muscle)の停止部と甲状舌骨膜の間の空間に存在する(Standring, 2021)。この位置関係により、舌骨の上下運動時に筋と膜との間で生じる摩擦が効果的に軽減される(Moore et al., 2021)。

組織学的構造

舌骨後包は滑液性滑膜(synovial membrane)に覆われた扁平な嚢状構造である(Netter, 2019)。滑膜は単層の扁平上皮様細胞からなり、少量の滑液(synovial fluid)を分泌する。この滑液には潤滑作用があり、ヒアルロン酸やルブリシンなどの糖蛋白質が含まれている(Standring, 2021)。滑液包の壁は疎性結合組織からなり、豊富な血管網と感覚神経終末を含む(Gray et al., 2020)。

大きさと形態

正常状態における舌骨後包は比較的小さく、数ミリメートル程度の扁平な構造である。しかし、炎症や滑液の過剰貯留が生じた場合には著しく拡大し、数センチメートルに達することもある(Weissman and Eslamy, 2020)。滑液包はしばしば対側の滑液包と連結しており、単一の大きな嚢として機能することがある(Putz and Pabst, 2022)。この連結の有無には個体差があり、臨床画像所見の解釈において重要な解剖学的変異である(Matsumoto and Sato, 2022)。

周囲構造との関係

舌骨後包は複数の重要な解剖学的構造と密接な位置関係にある。前方には舌骨下筋群(infrahyoid muscles)、特に胸骨舌骨筋と甲状舌骨筋が存在する。後方には甲状舌骨膜を介して喉頭前庭(laryngeal vestibule)が位置する(Drake et al., 2023)。側方には上喉頭神経内枝と上喉頭動脈が走行しており、外科的介入時には注意を要する(Standring, 2021)。深部には甲状軟骨の上縁が位置し、滑液包の拡大時には甲状軟骨との接触や圧迫が生じる可能性がある(Moore et al., 2021)。

発生学

舌骨後包は胎生期における頸部筋群の発達過程で形成される。舌骨および喉頭の下降に伴い、舌骨下筋群が発達し、これらの筋と甲状舌骨膜との間に滑液包が形成される(Standring, 2021)。この過程は胎生12週から16週頃に始まり、出生時にはほぼ完成している(Gray et al., 2020)。しかし、滑液包の大きさや形態には個体差があり、一部の個体では滑液包が形成されない、または非常に小さいこともある(Putz and Pabst, 2022)。

機能と生理学

摩擦軽減機能

舌骨後包の主要な機能は、舌骨の運動時における周囲組織間の摩擦を軽減することである(Drake et al., 2023)。舌骨は嚥下、発声、呼吸などの際に上下方向および前後方向に複雑な運動を行う。この運動時に、舌骨下筋群と甲状舌骨膜との間で生じる摩擦を滑液包が吸収し、円滑な運動を可能にする(Kahane and Beckford, 2019)。

嚥下機能への寄与

嚥下の口腔期から咽頭期への移行時に、舌骨は前上方に約1-2cm移動する。この移動に伴い喉頭も挙上し、気道が保護される(Kahane and Beckford, 2019)。舌骨後包はこの喉頭挙上の円滑化に寄与しており、滑液包の機能不全は嚥下困難(dysphagia)の原因となりうる(Ruddy et al., 2022)。特に高齢者では滑液包の変性や炎症により、この機能が障害されやすい(Matsumoto and Sato, 2022)。