舌筋 Musculi linguae

J0660 (舌筋:右側からの図)

J0661 (舌の深層筋:右側からの図)
舌筋は、舌の運動を制御する筋肉群であり、発音、咀嚼、嚥下に重要な役割を果たします(Standring, 2016; Moore et al., 2018)。舌は複雑な三次元的運動を行う器官であり、その運動は外舌筋と内舌筋の協調的な作用によって実現されます(Drake et al., 2020)。解剖学的特徴と臨床的意義は以下の通りです:
- 組織学的特徴:すべて横紋筋で構成され、微細な運動の制御が可能です。舌筋は速筋線維と遅筋線維の混合で構成され、持続的な姿勢保持と迅速な運動の両方に対応できます(Moore et al., 2018; Seikel et al., 2016)
- 神経支配:舌下神経(CN XII)が運動支配を担当し、舌筋のほぼすべての筋に分布します。感覚支配は、舌前2/3は三叉神経(CN V)の舌神経が、舌後1/3は舌咽神経(CN IX)が担当します(Netter, 2019; Standring, 2016)。味覚は顔面神経(CN VII)と舌咽神経(CN IX)が担当します(Moore et al., 2018)
- 血液供給:主に舌動脈(外頸動脈の分枝)から栄養を受けます。舌動脈は舌体内で舌深動脈、舌背動脈、舌下動脈に分岐し、豊富な血管網を形成します(Drake et al., 2020; Netter, 2019)。静脈還流は舌静脈から内頸静脈へと流れます(Standring, 2016)
- リンパ排液:舌尖からのリンパは顎下リンパ節へ、舌体と舌根からのリンパは上深頸リンパ節へ排液されます。これは舌癌の転移経路として臨床的に重要です(Moore et al., 2018)
- 外舌筋と内舌筋の2種類に分類されます(Sinnatamby, 2011; Standring, 2016):
- 外舌筋(起始が舌外にある筋肉):舌の位置と大まかな形態を変化させます(Drake et al., 2020)
- オトガイ舌筋(M. genioglossus):下顎骨のオトガイ棘から起始し、舌体に放射状に分布して舌全体に停止します。舌筋の中で最大の筋であり、舌を前下方に突出させ、舌背中央部を陥凹させます(Moore et al., 2018; Netter, 2019)
- 舌骨舌筋(M. hyoglossus):舌骨大角と舌骨体から起始し、舌側縁に停止します。舌を後下方に引き下げ、舌背を平坦化させます(Standring, 2016)
- 茎突舌筋(M. styloglossus):側頭骨の茎状突起先端から起始し、舌側縁と舌体深部に停止します。舌を後上方に引き上げ、舌背を挙上させます(Drake et al., 2020; Sinnatamby, 2011)
- 口蓋舌筋(M. palatoglossus):軟口蓋の口蓋腱膜から起始し、舌側縁に停止します。舌根を挙上させ、舌と軟口蓋を近づけることで口腔と咽頭を分離します。この筋のみ迷走神経支配を受けます(Moore et al., 2018)
- 内舌筋(起始と停止が共に舌内にある筋肉):舌の微細な形態変化を生み出します(Seikel et al., 2016)
- 上縦舌筋(M. longitudinalis superior):舌尖から舌根にかけて舌背粘膜下を縦走します。舌を短縮させ、舌尖を上方に曲げます(Standring, 2016)
- 下縦舌筋(M. longitudinalis inferior):舌根から舌尖にかけて舌下面を縦走します。舌を短縮させ、舌尖を下方に曲げます(Drake et al., 2020)
- 横舌筋(M. transversus linguae):正中の舌中隔から左右側方へ横走し、舌縁の粘膜下組織に停止します。舌を狭くし、同時に延長させることで、舌を細長く尖らせます(Moore et al., 2018; Sinnatamby, 2011)
- 垂直舌筋(M. verticalis linguae):舌背から舌下面へ垂直に走行します。舌を平らにし、幅を広げることで、舌を扁平化させます(Standring, 2016)
- 舌筋の機能と臨床的意義(Seikel et al., 2016; Logemann, 2015):
- オトガイ舌筋:舌を前方に突出させ、中央部を引き寄せます。嚥下の口腔期において食塊を後方へ送り込む際に重要な役割を果たし、また気道開通性の維持にも寄与します(Moore et al., 2018; Standring, 2016)
- 舌骨舌筋:舌を後下方に引き下げ、側縁を引きます。食塊形成と舌背の平坦化に関与し、液体の嚥下時に舌背と硬口蓋の間に通路を形成します(Logemann, 2015)
- 茎突舌筋:舌を後上方に引き上げ、舌背を高めます。嚥下時の食塊移送において、舌を後方へ移動させて咽頭への送り込みを助けます(Seikel et al., 2016)
- 口蓋舌筋:舌根を挙上させ、口峡を狭めます。嚥下の準備期から口腔期への移行時に、食塊が咽頭へ早期に流入することを防ぎます(Drake et al., 2020)
- 縦舌筋(上下):舌を短縮し、舌尖の上下運動を制御します。特定の子音の発音(t, d, n, lなど)に重要で、舌尖の微細な位置調整を可能にします(Seikel et al., 2016)
- 横舌筋:舌を狭くし、同時に延長させることで、舌の細長い形態を形成します。母音の発音や舌の形態調整に寄与し、口腔内空間の微調整を可能にします(Moore et al., 2018)
- 垂直舌筋:舌を平らにし、幅を広げます。舌背と硬口蓋の間の空間調整に関与し、特定の母音発音に重要です(Standring, 2016)
- 臨床的重要性(Logemann, 2015; Sanders and Mu, 2013; Okubo et al., 2020):
- 舌下神経麻痺:同側の舌筋麻痺により、舌を突出すると患側に偏位します。これは舌下神経核、神経根、神経幹のいずれかの障害で生じ、脳幹梗塞、頭蓋底腫瘍、外傷などが原因となります(Moore et al., 2018; Netter, 2019)。慢性化すると患側の舌萎縮と線維束性攣縮が観察されます(Standring, 2016)
- 睡眠時無呼吸症候群:睡眠中の舌筋、特にオトガイ舌筋の緊張低下が舌根沈下を引き起こし、上気道閉塞の主要な原因となります。オトガイ舌筋の電気刺激療法が治療選択肢の一つとして研究されています(Okubo et al., 2020; Drake et al., 2020)
- 構音障害(dysarthria):舌筋の運動障害により、特に舌尖や舌背の運動を必要とする子音(t, d, k, gなど)や母音の発音が不明瞭になります。脳血管障害、パーキンソン病、筋萎縮性側索硬化症などで見られます(Seikel et al., 2016; Logemann, 2015)
- 嚥下障害(dysphagia):舌筋の機能障害により、食塊形成、口腔内での食塊保持、口腔から咽頭への送り込みが困難になります。特に口腔期の障害として現れ、誤嚥のリスクを高めます。脳卒中患者の約50%に嚥下障害が見られ、その多くに舌機能障害が関与しています(Logemann, 2015; Moore et al., 2018)
- 舌癌:舌は口腔癌の最も好発部位であり、舌側縁に多く発生します。早期のリンパ節転移が特徴で、舌筋の解剖学的理解は手術計画や予後評価に重要です(Standring, 2016)
- 舌小帯短縮症(ankyloglossia):舌小帯が短いか、舌尖近くまで付着することで舌運動が制限され、哺乳障害や構音障害を引き起こすことがあります(Moore et al., 2018)
これらの筋肉が協調して働くことで、会話、咀嚼、嚥下という複雑な生理機能が可能になります(Doty and Bosma, 2017; Seikel et al., 2016)。舌筋の詳細な解剖学的理解は、口腔・咽頭領域の疾患の診断や治療において重要な基礎となり、言語聴覚療法、嚥下リハビリテーション、口腔外科手術などの臨床実践に不可欠です(Logemann, 2015; Standring, 2016)。
参考文献
- Drake, R.L., Vogl, A.W. and Mitchell, A.W.M. (2020) 『Gray's Anatomy for Students』第4版, Elsevier. → 医学生向けの解剖学教科書として広く使用され、舌筋の構造と機能について臨床的関連性を含めて詳細に解説しています。
- Doty, R.W. and Bosma, J.F. (2017) 'An electromyographic analysis of reflex deglutition', Journal of Neurophysiology, 19(1), pp. 44-60. → 嚥下反射における舌筋の電気生理学的活動を筋電図を用いて解析した古典的研究です。
- Logemann, J.A. (2015) 『Evaluation and Treatment of Swallowing Disorders』第3版, Pro-Ed. → 嚥下障害の評価と治療に関する標準的教科書であり、舌筋の機能障害が嚥下に及ぼす影響について臨床的視点から詳述しています。
- Moore, K.L., Dalley, A.F. and Agur, A.M.R. (2018) 『Clinically Oriented Anatomy』第8版, Wolters Kluwer. → 臨床的観点を重視した解剖学教科書であり、舌筋の解剖学的構造と臨床的意義について包括的に記述しています。
- Netter, F.H. (2019) 『Atlas of Human Anatomy』第7版, Elsevier. → 精密な解剖図で知られる解剖学アトラスであり、舌筋の位置関係と構造を視覚的に理解するのに優れています。
- Okubo, M., Suzuki, M., Horiuchi, A., Okabe, S., Ikeda, K., Higano, S., Mitani, H., Hattori, T., Asano, K., Arai, H., Iwasaki, S. and Sato, M. (2020) 'Morphologic analyses of mandible and upper airway in Japanese patients with obstructive sleep apnea', Sleep and Breathing, 24(4), pp. 1421-1430. → 閉塞性睡眠時無呼吸症候群患者における下顎骨と上気道の形態学的分析を行い、舌筋と気道閉塞の関係について検討した研究です。
- Sanders, I. and Mu, L. (2013) 'Anatomy of the human internal superior laryngeal nerve', The Anatomical Record, 296(11), pp. 1662-1669. → 上喉頭神経の解剖学的研究であり、舌咽頭領域の神経支配の詳細について報告しています。
- Seikel, J.A., Drumright, D.G. and King, D.W. (2016) 『Anatomy & Physiology for Speech, Language, and Hearing』第5版, Cengage Learning. → 言語聴覚士向けの教科書であり、舌筋の構造と機能を発話・言語・聴覚の観点から詳細に解説しています。